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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

小説 夏の路


 瀬戸大橋の全貌です 借り物です


この小説は 海の華の続編である 冬の華の続編である 春の華の続編である 夏の華の続編である
秋の華
の続編である 冬の路の続編である 春の路の続編である彷徨する省三の青春譚である。
この作品は省三33歳からの軌道です・・・。ご興味が御座いましたら華シリーズもお読み頂けましたらうれしゅう御座います・・・お幸せに・・・。

221 

夏の路 陽射しの強い路は・・・木陰にて涼を取り・・・。
 

 夏の路

1

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 子供たちは回し読みが終わり半たちも終わって立ち稽古に入っていた。
「館長、ホールを貸して欲しいのですが」
 省三は練習室が狭いので動きが狭くなって演出が困っているのを見て館長に言ったのだった。
「書類を出してください」
 館長は杓子定規に冷たく言った。
「舞台に明かりをくれればいいんです。全部を必要としていないんです」
「困りましたな・・・」
「誰も使っていないんでしょう・・・広い場所が今必要なのです」
「私に明かりを付けろといわれてもどのようにしていいか・・・」
「館長がいいといえば係りの人がつけてくれる事になっていますが・・・」
「鍵も開けるということですか・・・貸し館の承諾もなくですか・・・そのように係りのものが・・・無断で・・・。今村さん、私にこの件を言った以上は・・・私が聞いた以上は・・・出来ないとないと言わねばなりません・・・」
「そうですか・・・」
 省三は帰りかけた。
「ですが、私が聞いていなく、係りのものが好意でホールの鍵を開け舞台に明かりをつけたということになれば、これは係りの責任です・・・万一そのことが問題になった場合は責任者の私の手落ちになります・・・」
 館長は回りくどく言った。
「今村さんは私に季節の挨拶に来た・・・そのほかのことは私は何も聞いてなかったということに・・・」
 館長は続けて言った。
「誰か間違って鍵を開け明かりをつけてくれるでしょう・・・私にも母がおり・・・子供がいます・・・稽古をしているような孫もいます・・・。しっかりおやんなさい」
 館長の声は途中から小さくなった。
「暑くなりました、くれぐれもお体を大切にしてください」
 省三は深々と頭を下げて外に出た。
 まだこんな館長がいることを有難いと思った。
 周囲の暖かい思いやりでホールを使い練習が進んでいた。
 
        お石が登場する。石井の後ろから。
お石  先生様
石井  {振り返って}まあ、お石おばぁちゃん、何か?
お石  先生様、少し話を聞いてくださらんかの。
石井  はい、どのような・・・。
お石  わしは一人になってしまいましたがの。
石井  おばあちゃん、それはどういうことですの。
お石  みんな、わしを残して、独りっきりにして戦争に行きよった。前の大戦で連れ合いをのう死、今度の大戦で伜を三人とも取られてしもうた。
石井  おばあちゃん・・・。
お石  独りはさみしゅうておえませんわの。あっちこっちでこのさみしさをしゃべってあるかにゃあ・・・。先生様はわしの話を聞いてくださいますかの。
石井  {頷いて}はい。
お石  そうですかいの、それは有り難いですの。一番目は支那じゃ。そん次は満州、そん下がフィリッピン・・・。ですがの、ですがの、一番下のフィリッピンにいっとる伜が戦死をしたと言う公報が届きましたんじゃ。・・・役場の奴らぁ、靖国神社に祭られて光栄じゃとぬかしよるんじゃ。そんなもんですかの。わしは、靖国の母、九段の母、よう死んだ、おまえはお国の為によう死んだと褒めてやらにゃあならんのですかいの。伜が祭られとる靖国神社に行って、白砂利の上に膝を付いてこのばばの頭を下げて、お前は天子様のために、国のために死んで、こんな立派なお社に神と祭られてほんに幸せな奴じゃと言うてやらにゃならんのですかいの。・・・わしのような馬鹿なばばにゃあ分かりませんけえ。先生様そげんなもんですかいのう。
石井  おばあちゃん!それ以上は・・・。
お石  自分の伜が死んで喜ぶもんはおりませまあ。・・・。先生様はどう思われますりゃあ。
石井  私は・・・。おばあちゃんの心は良く分かっております。私も父を・・・。そして、あの教え子達のお父さんや家族の方々が・・・。
お石  分かってくださいますかの。こん村の奴等は、わしのことを非国民じゃ、気が触れたんじゃとぬかしよるんじゃ。
石井  おばあちゃん、この村からも多くの男の人が、どこの家からも・・・。
お石  そんなら、余計にわしの心が分かると言うものではねえんかのう。
石井  でも分かっていても言えない事つてあるでしょう。
お石  そりゃあ、そうじゃが・・・。でも冷たすぎるわの・・・。淋しすぎるわの・・・。わしは軍国の母じゃから泣いたらおえんと思いますがのう。でものう・・・伜が・・・。
石井  辛いでしょう、淋しいでしょうが、それ以上言ったら憲兵に・・・。
お石  {石井を睨み付けて}先生様もそう言われますかのう。・・・わしゃ、いつまでも、いつまでも、こん命がつくるまで戦争を恨みますけえの。憎みますけえの。・・・伜をわしの腕から奪って行ったことは忘れませんけえの。
石井  おばあちゃん・・・・
お石  わしゃ、九段には死んでも行きませんけえの。
        お石そう言ってぷいと退場する。その後ろ姿をじ
        っと見つめる石井。

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        校長が登場して石井の姿を眺めていたが。咳ばら
        いをして、
石井  {振り返り}校長先生。
校長  あのおばあさんは気が触れたのじゃ。この大事なときに、みんなが力を合わせにゃあならん時に、ああやって、村中を歩いて銃後を守る人達の心に動揺を与えておる。困ったもんじゃて。
石井  私には・・・。
校長  滅多なことは言えませんぞ。私達教師は子供達に忠君愛国を教え、もったいなくも天子様に命を捧げることの出来る誉れを教えなくてはならんのですぞ。つまり、私達国民総ては天子様の赤子であり、天子様は神であることを。そして生命を捧げることが恩に報いる総てであることを。だから、私達はその模範を示さなくてはならんのですぞ。
石井  はい。
校長  ところで、海軍に行っておる家の生徒は誰と誰だったかな
石井  はい。健次君とお雪ちゃん、それに・・・。
校長  お雪のてて親が戦死なされた。
石井  それは、本当ですか?
校長  今、役場を覗いたらそう言っておった。村長にも尋ねたのじゃが、間違いはない。ガタルカナルの海戦で、山本五十六連合艦隊指令長官が名誉の戦死をされ、その時大変な死傷者が出たらしい。
石井  その中に、お雪ちゃんのお父さんが・・・
校長  うむ。
石井  何と言うことに、何と言うことに。お雪ちゃんはお母さんと二人きりになってしまったのですね。
校長  政府もここに至っては、もう事実を発表して国民に今まで以上の一層の発奮と努力を強いるしかないとのお考えらしい。
石井  あのこのお父さんが・・・私はどのように・・・
校長  先生に知らせたのは心の準備をしていてほしいと思ったからですのじゃ。
石井  {頬に散る涙を手でぬぐった}
校長  泣いては子供達が動揺しますぞ。確りして下されよ。今こそ 私達は強い心をもって・・・。                
石井  でも、私は他人事として考えられません。父は軍医として・・・。
校長  だからこうして・・・いづれ役場からお雪の家に公報が届き・・・。そのとき先生が心を取り乱していてはと思い、それが心配で。
石井  ・・・はい。分かりました。・・・それで戦局は・・・・
校長  ガダルカナルからブーゲンビルまで、もう落とされていると言うことじゃ。
石井  もうそんなに・・・
校長  首都東京は空襲が激しくなり、何れ強制的に学童疎開が・・・。
石井  噂にあった、学徒動員令は・・・。
校長  うん、議会は通過したらしい。これからは多くの学生がどんどん戦場に狩り出されるであろうの。
石井  これからの日本は・・・。
校長  その先は言えませんぞ。これ以上は私達の言えた立場ではありませんからな。
先も言ったように天子様の赤子に教えていることを充分認識して下されよ。
石井  はい。
校長  では・・・。{子供達を見て}あかるうて元気のええ子供達じゃ。あの屈託のない澄んだ瞳と笑顔は眩しいくらいじゃ。
        校長は子供達を見て頷きながら退場する。
石井  {遠くに視線を投げながら}明文さんは京都帝国大学の文科生、若しや徴兵に、学徒出陣に・・・。私はどうすればいいの。・・・お雪ちゃんのお父さんのこと・・・ああ。戦争が無かったら、戦争が・・・。
        子供達が「せんせいはようみにきてくれ」「こん
        なもんでええんかの」と呼んでいる。
        石井ははっとして振り返り、
石井  はい、すぐ行きますから。
        お雪の母、民江が「お雪!」「お雪!」と叫びな
        がら登場する。
春子  お雪ちゃん!
お雪  {振り返って}おかあ!
        お雪立って、母のほうへ近寄ろうとする。
        民江は運動場にへなへなと崩れるように座り込む
        。お雪は母にかぶさつていく。
お雪  おかあ、どうしたん。
民江  おとうが・・・おとうが・・・
お雪  おとうが、どうしたん・・・おとうがどうしたん・・・
民江  おとうが・・・
お雪  おかあ・・おとうが・・・
        民江はお雪をしつかりと抱き締めて立ち上がり。
民江  お雪、泣いたらおえんぞ。おとうは日本のために死んだんじゃ。泣いたらおえんぞ、泣いたらおえんぞ・・・
        舞台明かりが消え、お雪と民江の抱きあって空を
        眺める姿に、ピンスポットが照らす。そしてもう
        一つは、石井を取り囲んだ子供達にサススポット
        があたる。石井は子供達をしつかりと抱悔しそう
        な長太の顔、心配そうな健次の顔、涙を咬み殺し
        ている花江の顔。
        段々とピンスポットがお雪と民江の顔に絞り込ま
        れていく。石井のサススポットはその前に消えて
        いる。
健次  お雪!
お雪  おとう!おとう!
        お雪はあらんかぎりの声を上げて叫んだ。
                            暗転

2

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 省三は時折小さな不安発作が現れたが薬を飲んで難なく乗り越えていた。その発作の頻度は少なくなっていた。演劇作りの忙しさで身体が慣れていったのか省三は自信が持てるようになっていた。病気と演劇作りを闘っている省三がいた。
 省三は稽古を見ていておかしいと思われるところを直ぐに書き直した。家に帰って読み追加の原稿を書いた。それが次の稽古の日に渡され台本に短冊のように貼られた。
 八月中は昼は子供たちの稽古、夜は青年の稽古が続いていた。
 公演日は十一月三日の文化の日、市民会館大ホールと決まっていた。二千二百人収容のホールだった。
 戸倉は広告取りや観客動員に奔走し演出とは名ばかりで稽古は省三が見ていた。青年はまだ本を持っての稽古だった。足らずの青年たちは戸倉が何処からか連れて来ていた。前からの人達とは明らかに差があった。二ヶ月あればどうにかなるだろうと省三は楽観的に考えていた。
 
 省三は家に帰るとほっとした。体から総ての力を抜いて一息ついた。稽古を見るということはそれだけ神経を使っているのだと思った。
「今日も恙無く・・・」
 育子が笑いながらそう言って部屋に入ってきた。
「ああ、子どもたちを見るのは疲れるね」
「上がっているの」
「子供は早いよ・・・どんな名優も子供には負けるというが・・・」

長太  お母が来たんじゃろう。おなごはめめしゆうておえんけえの。
石井  本当に行くの。
長太  {大きく頷いて}うん。
石井  どうしても。
長太  {うなずいて}うん。
石井  もう決めたことなの。
長太  {石井に背を向けて}うん。
石井  お母さん、おばあちゃん、妹さんをほったらかしにしても平気なの。
長太  そりゃあ・・・
石井  どうして、そのことを一番に考えないの。
長太  じゃあけえど、神国日本の国が鬼蓄米英に負けよるんじゃ。家のことなど言うてはおられんけえ。
石井  戦争は大人に任せて・・・戦争と言うのは兵隊さんだけがするんではないと先生は思うの。銃後を守ることも立派なことなのよ。愛国心なのよ。
長太  先生!先生はわしに行くなと・・・
        石井は教室の外を見る。校長が隠れるように見て
        いる。
石井  いいえ。そうは言ってないわ・・・でも・・・
長太  先生が行くなと言うのじゃつたら・・・
石井  いいえ、そうは・・・
長太  先生!わしは本当は行きとうはないんじゃ。なんで、伯母あゃ、お母、妹をほったらかしていけりゃあ・・・去年、東京の叔父さんが来て、おまえも小学校を卒業したらお国の為に尽くせ。そのためには、満蒙開拓青少年義勇軍には入れと言われたんじゃ。・・・わしゃどうすりゃあええんか分からんかった。この半年考えたんじゃ。わしがおらんようになったら、妹に、お母に、おばあに、わしの喰いぶちがやれるし、お父が満州にいっとるけえ、万が一にも会えるかも知れん、そう思うたんじゃ。そんなことやなんやかやで、村長さんが行けと言うて来た時、行くと言うてしもうたんじゃ。
        長太は泣きながら言った。
石井  長太君!{じっと耐えている}
長太  じゃけえど、今なら、止められるけえ。先生!行くなと言うてくれ。そんなら行きやせん。
        長太、石井の胸の中へ飛び込んで行く。
石井  長太君、長太君、先生はなんにも言えないのよ。言いたいことが一杯つまり、喉迄出かかっているけれど、言わなくてはいけない言葉も沢山あるけれど、それを知っているけれど言えないのよ。
長太  先生!
石井  先生には、長太君の心が良く分かるの。その思いが胸を締め付けて痛い程分かるけれど・・・だって、でも・・・長太君が考えた末のことなのだから・・・{泣きながら}先生は・・・
        校長が登場して来て。
校長  長太、良く決心をしたの。それでこそ天皇陛下の赤子の日本男児、お国の為に働くのが、天子様に命を捧げるのが、忠君愛国の精神と言うものじゃ。満州は広い、そして、多くの資源が眠っている。それに、肥沃の大地が膨洋と拡がっている。それを、若い君達が拓き耕しあらゆる資源の増産をはからなくては日本は世界の乞食になってしまう。そこのところを良く考えての、頑張るのじゃぞ。石井先生もこうして賛成しておられる。後に続く本校の後輩のためにも、長太の考えは良い手本となることじゃろうて。
長太  {石井に}先生!
石井  {目を伏せた}
長太  先生!
石井  ちょうた・・くん。
        長太、石井の顔を少しの間見ていたが、自分の机
        に行き、一枚の絵を取り出して、石井の前に出して。
長太  これ、わしが描いた先生の顔じゃ。受け取って欲しいんじゃ。
石井  長太君・・・ありがとう。きっと、きっと大切に・・・{絵を胸に抱いて泣いた}
長太  {泣きながら}先生、さよなら。
        長太、走って退場する。
石井  長太君!{追い掛けようとする}
校長  石井先生!{大きな声で諌める}
石井  校長先生!
校長  よかったんですょ、あれで。これから先の事は、あの子の持って生まれた運命に託すより他にないのですからな。元気でいてくれよ、と祈るしかもう私らには出来んのですからな。
        校長退場する。
        花江が教室に入ってくる。
花江  先生、長太ちゃん、どうしたん。
石井  後を追って、そして、先生が良く考えてと言ったと言って、そう伝えて。
花江  うん。
        花江急いで退場する。石井は呆然と立ち尽くす。
石井  あの子の運命、あの子の運命。そうなんですか。私には元気でいてくれることを祈るしか出来ないのですか。ただそれだれけの力しかないのですか。それで本当に良いのですか。

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 省三の脳裏には稽古の様が去来していた。子供たちは生き生きと演じていた。一人の青年がその姿をじっと見詰めていた。
 古賀は省三のところに原稿を持ってきて読めといった男であった。省三は何年か勉強してもう一度来いとつき返したのだった。その古賀をこの演劇に引き込んでいた。古賀が子供たちに戦争のことを話し予備知識を与えていた。若いが台本を読み込みその背景を勉強してきていて、子供たちと良く話していた。
「古賀君がよくやってくれて助かるよ」
「そう、あなたのお気に入りだから・・・」
「ああ、私の意を汲んで、子供たちとの橋渡しになってくれているよ」
「いい人が出来るといいのにね」
「出来るさ、古賀君なら」
「そうね」
 省三と育子は何の変哲もない会話に幸せを感じていた。
 省三は病気の事はすっかり忘れていた。そんな暇がないくらい熱中していた。熱さも熱いと感じなかった。
 部屋には水冷のクーラーがからからと音をたて冷風を出していた。
 省三が帰る頃には二人の子供たちは眠っていた。どんなに遅くなっても朝には保育園に送って行った。それがせめてもの父親の存在感を見せるものだった。
 八月が終わろうとしていた。

「この演劇は反応がいいぞ・・・広告もすんなりと取れて・・・観客動員もあらゆる団体が興味津々・・・こんなのだったら二回の公演にすればよかった」
 戸倉は興奮して言った。
「何回でも公演すればいいではありませんか・・・何年か後には国際児童年があることですし・・・」
 省三も頬を崩して言った。
「それを決めておこう・・・何年後だ・・・」
「五年後ですよ」
「丁度いい頃だ・・・」
「その時に青年から市に対して、この町が母と子を大切にするというシンボルを建ててはどうかな」
「なんだ、それは」
「例えば、「母とこの像」とか」
「それもやろう・・・みんなで協力して建てよう・・・今から手を回して・・・準備期間も丁度いい」
 戸倉と省三は話が弾んだ。
 収益と寄付で賄う、倉敷の駅前に建立すると決めたのだった。
「上がっとるか・・・何もかも任せて済まんな」
「それは構わないけど・・・明かりと音は早いほうがいいよ」
「分った」
 戸倉は強く言った。

3

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舞台明かりが点く。
        雄三と春子が登場する。
雄三  もう、僕は腹ぺこだょ。
春子  {腹を押さえて}私も。
雄三  疎開者だと言って食べるものはくれないし、このところ藷や豆ばかり食べて腹をこわし、下痢ばかりしている。
春子  私も・・・みんなどうしているかしら、東京の友達は、みんな学童疎開で・・・
雄三  東京は空襲で大変らしいね。
春子  家は、焼けてないと良いけど。
雄三  僕も心配をしているんだ。お父さんやお母さんは長野の方へ疎開したけれど、友達はどうしているんだろうかと。僕も東京の友達と同じところへ・・その方がここの人達と違って・・・
春子  そうね、でも、この村の人達、そんなに意地悪ではないと思うの。この村は貧しい村なのょ。私達が来たぶんだけ、みんなの食べ物が少なくなるんですもの・・・だから・・・
雄三  だから、いじめると言うのかい。
春子  違う。今は非常時ょ、自分勝手に考えては駄目ょ。藷でも
 豆でも食べられるだけ私達は良いのょ。食べられない人が一杯いると言うのに・・・
雄三  そうかも知れないね、きっとそうだょ。僕のわがままか。さあ、みんなの後を追って蕨や薇を取りに行こう。
春子  うん。松笠を集めて冬に備えなくてはね。
        雄三、春子退場する。
        健次、泣きながら登場して、教室で潜望鏡を覗 く
        真似をして。
健次  敵艦前方五千、魚雷発射用意、発射!わあ、命中。・・・伊号八は日本一の潜水艦、少々のことじゃ沈まんぞ・・・爆雷攻撃に備えて深度を下げろ。はい。五十、六十、七十・・・。前方四千に駆逐艦発見、魚雷発射用意、発射!わあ命中・・・
        健次、一人で走り回っている。
        石井は、廊下の窓からその様子を見ている。
        健次はひとしきりはしゃいだが、呆然と舞台中央
        に立ち尽くす。
        石井、そぅうと教室に入り、健次の後から。
石井  健次君!{声が詰まる}
健次  {振り返って}先生!{石井の胸に飛び込んで行く}
石井  {抱き締めて}健次君、先生は何と言えばいいの・・・
健次  お父が・・・{歯を食いしばっている}
石井  先生も知っていわ。
健次  先生!伊号八潜水艦が沈んだなんて嘘じゃなあ。そげんこたあねえなあ。お父が死んだなんて出鱈目に決まっとらあなあ・・・{泣いた}
石井  {俯いて}そうよ、そうよ、きっと何かの間違いょ。健次君があんなに誇りにしていた伊号八潜水艦は沈んでなんかいないわ。
健次  {顔を上げ、石井を見つめ}先生もそう思うか?
石井  きっと、お父さんは帰ってくるわ。健次君のお父さんは強い人、海を泳いでも帰ってくるわ。さあ、もう泣かないで、涙を拭いて・・・{石井は泣き顔を見せまいとして横を向いた}
健次  {石井の腕から出て}そうじゃ、おらのお父は強いんじゃ。泳いででも帰ってくるけえ。
        健次泣きながら舞台袖へ退場する。
        石井は心配そうに、健次の後ろ姿を見送っていた
        が、運動場に出て蒜山三座眺めた。

 九月に入ってからは子供たちも夜に来るようになった。青年と絡み稽古が出来るようになった。子供たちは出来上がっていた。青年が引きずられる状態だった。
 立ち稽古漸く始まった。館長に無理を聞いてもらうのも限度があった。広い練習場を求めて転々としなくてはならなかった。一日の成果は着実に上がっていた。戸倉が何日か徹夜をして音を作った。
「玉音放送」「若鷲の歌」「りんごの歌」「夢の中へ」が稽古場に響き渡っていた。その中を稽古は続いた。

 舞台明かりが消え、下手サススポットが降りると
        、そこには柳井明文が浮かび上がる。敬礼して。
柳井  昭和二十年六月十八日、遂に出撃命令が下りました。自分は明日出発します。今、自分は、自分の飛行機の傍らであなたにこうして手紙をしたためております。自分の二十有余年で一番辛いことは、自分を育み育てて下さつた御両親様より先立つ不幸です。そして、嬉しかったことは、あなたと今生で巡り会ったことでした。あなたにこの手紙を書く前に、御両親様には先だつ不幸をお許し願い、お国のためにこの命を捧げることの出来る誉れを報告いたしました。
 短い一生でしたが、あなたを知ったことで悔いはありません。あなたと多くの事を語りたかったと思いますが、もうそれも出来ません。
 今、茜色に雲を焼きながら太陽が西の空に沈もうとしております。明日、自分はこの夕陽を見ることは出来ません・・・
 あなたに何もして上げられなかったことが、今の自分の心残りです。自分はお国のために喜んでこの命を捧げます。どうか可哀
 相そうだとか、もったいないとか、悲しいとかの憐憫の感情は持たないでください。
 自分の学友、戦友は一足先に九段に参りました。明日、自分も九段に参ります。どうか、自分のことは忘れてください。決して九段には来ないでください。
 良い先生になってください。思いやりと、優しさと、そして、命を大切に出来る子供になるように教えてやってください。
 あなたの幸せを心よりお祈りいたします。
                         平安一路
        神風特別攻撃隊 三○一大和隊
            海軍中尉   柳井明文
         石井準子様
        柳井が語っている間、「海ゆかば」のBMGが静
        かに流れること。
        柳井のサススポットが落ち、舞台明かりが点く。
        石井の眼には涙が潤み、一筋二筋頬をつたってい
        る。
        校長が登場して。
校長  石井先生!
石井  {振り向かず、涙を指先でぬぐいながら}はい。
校長  先生の気持ちは・・・さぞ辛いでしょうな、柳井中尉は・
石井  あの方は・・・いいえ、柳井中尉はお国のために・・・
校長  先生・・・健次の父親にしても、柳井中尉にしても、みんなお国のために、忠君愛国の精神を以て身を捧げたのですぞ。先生の気持ち、助かって生きていて欲しいと言う気持ち、分からないではありませんが・・・それを、健次に話してはなりませんぞ。先生の優しい心が一時は辛さを忘れさせはしても、現実の前では嘘になるのですからな。
石井  私は、私は・・・
校長  冷静に、現実を事実として語らなくてはなりませんぞ。
石井  私には出来ません。
校長  {厳しく}甘えてはおられませんぞ。子供ではありますまいに。・・・先生一人ではありませんぞ。お雪にしても、健次にしても・・・そして・・・この私にしても・・・
石井  ・・・校長先生・・・{振り返って}
校長  将校として沖縄にいた私の伜は・・・女子挺身隊と一緒に岸壁から海に身を投げて死んだんです。
石井  それでは姫百合部隊の方々と一緒に・・・
校長  ああ、将校として、腹を切ることも出来ん愚かな伜じゃ。
石井  校長先生、それでは・・・
校長  夢と思いたい、夢であって欲しいと考えたいが・・・それが現実なら・・・
石井  私は・・・
校長  この戦争が無かったら、と何度も考えたもんですが・・・私も教育者、己の心を殺して、押さえて・・・
石井  私は何も知りませんでした。校長先生にそんな・・・
校長  私は忠君愛国を唱え、卒業生を、多くの若者を出征させた。その度に「命を捧げることこそ天皇陛下への唯一の恩返しだ」と・・・{泣いて声がかすれる}
石井  もう、私は嫌です。教師が嫌に・・・{手で顔を覆った}
校長  {強く}許されませんぞ。あなたも教育者でしょうが?そんなことでどうするんです。子供達を見捨てると言うんですかの。これからの日本を担って立つ子供達を・・・先生の心は良く分かりますが、今、そのような心でいると子供達は目的も希望もなく投げ出されるのですぞ。悲しみは月日が洗い流してくれます。私達は、子供達に生きる喜びを、学問の尊さを、命の重さを、そして、人間の偉大さを・・・
石井  無理です。今の私の心では・・・
校長  先生!今、日本の何処やかしこで悲しみにくれている人達が沢山おりましょうな。私達もそのうちの一人ですが、私達は教育者であると言うことを忘れてはなりませんぞ。世間から見れば聖職、その見本を見せてやらにゃならんのですからな。
石井  私が聖職、そして、見本を。もう沢山です。
        足音を立てて、おせつが登場する。胸には白い布
        で包んだ骨箱を抱えている。石井の後ろから。
おせつ  先生様、これが何か分かりますかいのう?
石井  ええ?!
おせつ  長太の骨ですんじゃ。ように見てつかぁさい。
石井  まあ、長太君の・・・どうして、どうして。
おせつ  どうもこうもありませんわの。長太はこげんな姿になって帰ってきましたがの。
石井  {両手で顔を押さえた}・・・
おせつ  あん時、先生様に、長太を止めてつかぁさいとお願いしましたわの。
石井  はい。{ゆっくりと頷いた}
おせつ  こん中にゃあ、骨は入っておりゃあせん。誰の髪か分からん髪の毛が数本だけじゃ・・・先生様、先生様はあん時どうして止めて下さらなんだんですりゃあ。あん時止めていて下さりゃあ、長太もこげんな姿になって帰ってこんでもすんだんですじゃ・・・なんで、なんで・・・{泣き崩れた}
石井  {泣きながら近ずいて行き、骨箱に手を伸ばす}長太君!
おせつ  {振り払うように}触らんようにしてつかぁさい。あんたはひとでなしじゃ。嘘つきじゃ。
校長  何と言うことを、血迷ってからに。ええかげんにしなさいょ。あの時、石井先生は・・・
石井  私が悪かったのです。私が・・・
校長  {何か言おうとする、おせつを遮って}さあ、もう帰った、帰ってください。
        校長、おせつを連れ出そうとする。
おせつ  ひとでなし!嘘つき!{叫んだ}
校長  これ以上言うと、憲兵に引き渡しますぞ。
        校長、おせつを引っ張って退場する。
石井  長太君・・・長太君、先生は、先生はどうすればいいの。
        石井は自分の机の引き出しから、長太の描いた絵
        を取り出し胸に抱いて。
 長太君!
        長太の声「先生が行くなと言うんなら・・・行く
        なと言うてくれ」
石井  {手で耳をふさいで}長太君!御免なさい、御免なさい。あの時もう少し勇気があったなら、行かないでと言えたし、行くと言ってもいかしはしなかったわ。でも言えなかった・・・長太  君を殺したのは私なのょ。許して・・・でも、あの時・・・私は  どうすれば良かったと言うの、どうすれば・・・
        石井は机に「わあ」と泣き伏した。舞台明かりが消              
えて、石井だけに、サススポットが降りる。
                           暗転

 稽古の合間に全員で、小道具、大道具の制作をするのだった。
 全員がこの演劇に熱中していた。始めての人も目を輝かせてきびきびと動いた。全国青年大会のときの熱気を感じた。来年はこの青年たちを大会へ行かせなくてはならないと省三は思った。重い荷を自らが背負おうとしていた。

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 十月に入った。衣装を着けての通し稽古が続いていた。
 何時の間にか省三は日程になれ消化していた。大きな発作はこなかった。その頃には省三が車を運転して行けるようになっていた。
「お疲れ様でした」
 みんなが声を掛け合い稽古が終わった。
 省三が帰ろうとすると芳子が声を掛けてきた。
「先生、今日は仕事が遅くなったので自転車で来なかったのです・・・送って下さい。それに少しお聞きしたいことともありまして」
 芳子は少し鼻にかかった声だった。
「いいけれど、まだ夜の運転は自信がないけれど、それでよければ」
 省三は正直に言った。
「先生と事故るのだったら本望です」
「冗談だろう」
「いいえ、本気です」
 省三は慌てて駐車場へ歩いた。まだ帰っている人がいた。その人に聞かれたら、誤解をされたら公演日までの結束力と緊張感が緩むことを恐れた。
「何をそんなに恐れているのですか・・・石井の演技が分らなくて少し聞きたいだけなのですよ」
 省三は芳子を乗せて郊外の喫茶店へ入った。ウエイトレスが注文をとりに来た。
「スパゲッティとワインを」
 芳子は注文した。
 省三はコーヒーを頼んだ。
「みんなの前では言わなかったが、石井にのめり込まないで、突き放してやってみてくれないか」
「分りました」
 それで注意は終わった。
「何か聞きたいと・・・」
「もういいんです・・・」
「いいのか」
「最近疲れるのです、毎日飲んでます」
「飲んでいるのか・・・呑めればいいね・・・私は飲めないから・・・」
「彼とは別れました・・・先生の言うとおり・・・」
「それで・・・」
「いいえ、辛いんです」
「愛していたのか・・・」
「いいえ、愛してしまったのです・・・」
「いい人が出来たのだね・・・」
「はい」
「よかったね・・・」
「良くないんです」
「複雑なのか・・・」
「酔っていいですか」
「送っていくから・・・」
「介抱してくれますか」
 芳子は飲まない前から酔っていた。
 スパゲッティを食べワイングラスを何杯も空けた。
 芳子はスタイルのいい綺麗な女性だった。目がとろんとし色香を増していた。
 芳子の家の近くに車を止めても下りようとしなかった。
「帰りたくない」
 芳子は小さく言った。熱いといってブラウスを脱いだ。
「抱いて」
 芳子は小さく言った。
 省三は肩を抱いてそのままじっとしていた。
「公演が終わるまで・・・」
 省三はそう言った。声は震えていた。
 省三はいつかこんな日が来ることを予期していたが、心は乱れていた。


        石井は思い余って飛び出してきて、二人の後ろ姿
        を見送る。
石井  花江ちゃん、雄三ちゃん・・・{小さく言った}
文造  見たか、子供達は心に大きな傷を持つていても、それを乗り越えようとしているではないか。
石井  {聞こえない振りをして、蒜山三座に視線を投げて}綺麗、若い木立ちが芽を吹いていて。
文造  懐かしいか。
石井  以前と少しも変わっていないわ。
文造  人間の心だけが変わったと思うか?
石井  それは・・・
文造  来て良かっただろう。家に閉じ篭もっていては身も心も滅いるだけだ。なにもかも忘れさせるためにここへ連れてきた。
石井  {教室の中を見渡している}・・・
文造  長太君の笑顔を思い出してみろ。
石井  お父さん、言わないで・・・
文造  おまえの心にそんなに深く重く・・・だから、ここで解決して欲しいのだ。出発した時の心で、場所で、あの頃のおまえに帰って欲しいのだ。
石井  ここには余りにも悲しいことが沢山有り過ぎます。
文造  分かっている。あの時は本当の事を言ってはいけない時代であった。{遠くを見つめて}私にだって、おまえと同じように深い悔恨はある。私が多くの傷兵になんの手当ても施す事無く見送ったことが、軍医として殺人者だと言うのなら、そう呼ばれても仕方がない。が、しかし、手当てをしようにも薬と言われるものはなにもなかった。アルコールが少々それに綿、それだけで一体なにが出来た。助かると分かっていてもなにもしてやれなかった。ただ、手を握ってやりお座なりの元気付の言葉を投げてやることが精一杯だった。その時ほど、医者として辛い事もなかった。悔しいこともなかった。
 だから、お前が一人の教え子を引き止めることが出来なくて、死なしてしまった思いからくる苦しみや辛さは痛いほど分かるのだ。お前の純粋な心にその悲しみはくさびとなって打ち込まれていることだろう。が・・・何時までもその事に心を痛めていて一体なにが生まれると言うのだ。長太君を行かせたくはなかった。が立場上行くなとは言えなかった、そのために・・・
石井  あの時、先生が行くなと言うのなら行かないとはっきり言ったのです。今でも、あの時の声がこの耳に残っているんです。瞼に思い詰めた悲しそうな顔が焼き点いているのです。
文造  例え、お前が引き止めたとしても、校長や村長んが手続きを済ませていたと言うではないか。お前が止めていたら、非国民として憲兵に引っ張られ、より長太君を苦しめることになっていたかも知れないのだぞ。
石井  私はその方が・・・あの時の顔、あの時の瞳・・・
文造  忘れろとは言っていない。何時もその心を大切にして生きて欲しいのだ。
 私も、多くの死んでいった傷兵の顔を心の中に刻み、これからの医療を考えてゆく積もりだ。
 お前は、教職に戻れ。そうして、二度と不幸で悲しい物語を創るな。それがせめてもの、これから生きる人間の、いや生き残った人間の勤めであると私は考えるのだが。
石井  ・・・出来ません、今の私には・・・
文造  お前は、今のままで良いと考えているのか、そんな人生しか歩めんのか。それがお前の本心としたら寂しすぎる。そんな自分自身のたのにだけ生きるような考えを教えた覚えはない。もう一度教育の現場に立って過ちを償え。長太君のためにも教壇に立て。過ちを二度と起こさないためにも・・・
石井  お父さん・・・
文造  今のようなお前を見るのは辛い・・・お前に教育者への未練が無いのなら早く嫁に行け。行ってもろくな嫁にはなれんだろうが。
 私は思う。時代の流れ中で人間がどのように生きるか、そして、どのように生きたかを次の世代へ向けて語る、それが真の教育だと考えるのだが。
石井  お父さんのように、私は強くもないし、勇気もありません
文造  柳井中尉はお前に何と言った。
石井  お父さん・・・
文造  お前に、良い先生になってくれと・・・
石井  そう、良い先生に・・・明文さんが・・・
文造  そして、九段には来ないでくださいと。
石井  そう、九段には来るなと・・・
文造  その言葉の意味が分からんか?私は二度と戦争と言う愚かなことを起こすな。そして、教え子を二度と戦場に送るなと言う思いが込められていると読んだのだが。
石井  二度と戦争と言う愚かな事を起こすな。・・・教え子を二度と戦場に送るな・・・
文造  そうだ。お前は愛した人の志を受け継ぐ義務がある。そして、長太君を二人と出してはならんと言うことだ。
石井  長太君を二人・・・
文造  そのためにも教職へ戻れ。
        「さあ、昼飯にしょう。入った、入った」
        校長の声がして、校長、花江、健次、雄三、お雪
        、春子、杏子、その外子供達が入ってくる。
        石井、文造の背に隠れようとする。
校長  石井先生!
石井  {顔を横に向けて}お久しぶりでございます。その節はご迷惑をお掛けいたしました。
校長  いや、いや、なんの。あの時は身も心もぼろぼろにならん方がどうかしていたんです。{文造に}この度はすいませんでした。{頭を下げた}
文造  いや、こちらこそ。
        「先生」「石井先生」「せんせえ」と子供達はま
        ぶれついていく。
        石井、みんなを抱えるようにして。
石井  みんな、元気そうね。
花江  先生、学校に帰ってきて。
健次  そうじゃ。帰ってきてくれ、みんなと遊ぼう。
花江  遊ぶんじゃのぅて勉強するんじゃが。
雄三  そうだよ。
健次  なにを!
校長  こら、止めんか。そんなことを言うて喧嘩をしていたら、石井先生は戻って来てくださらんぞ。
春子  おとなしくして良い子になりますから、帰ってきてください。
健次  おらも、もうわるさはせんから・・
花江  そうじゃ、ええ子にならんといけん、悪さをしたらおえん
健次  チェ!なんじゃ、お花だけがええ子になってからに。
お雪  先生、帰ってきて。
石井  お雪ちゃん。
お雪  先生、うち、もう泣き虫お雪じゃねえけえ。
石井  お雪ちゃん{と言って抱く}
健次  おらも、もう、くよくよしとらんけえ。
石井  健次君、そうね、そうよね。
杏子  せんせい、かえってきて。
石井  あなたは?
花江  長太ちゃんの妹の杏子ちゃんじゃ。
石井  あなたが長太君の・・・
杏子  うん。
校長  今日、石井先生が来られると言うことでしたから・・・長太君のお母さんにも。もう、おつつけ来られるじゃろう。
石井  私は{逃げ腰になる}
文造  逃げるか、逃げて一生暮らすか。
        「先生」「せんせい」「せんせえ」と子供達が叫
        ぶ。
石井  {頷きながら}私を、私をそんなに、こんな私に・・・
        おせつ、登場する。
おせつ  先生様。
石井  お母さん。
おせつ  あん時は真にすいませなんだ。何にも知らんで・・・
石井  いいえ、あの時のお母さんのお気持ち・・・
おせつ  あん時、うちはどうにかしとったんですらぁ。先生様は、うちとの約束を守ろうとしてくださいましたこと、後で聞きましたで、何度、先生様のお宅へ足を向けたか知れませんのんですんじゃ。が、どうしても行けませなんだんですんじゃ。
石井  おかあさん!
花江  うち、あん時、先生から言われて、長太ちゃんを追い駆け、よう考えるよう先生が言われとると言うたもん。先生が目に涙を一杯に浮かべて言われとった顔を、うちは覚えとるもん。それを長太ちゃんに言うたもん。
石井  花江ちゃん。
花江  でも、そいでも、長太ちゃんはもう決めたと言うて走ったもん。
石井  花江ちゃん、もういいのょ、いいの・・・
花江  毎日毎日、冬になると履きもんをストーブで暖めてくれた、先生の心の暖かさは忘れんと言うて走ったもん。勉強の出来んわしをおそうまで教えてくれたことを忘れりゃあせんと言うて泣いて走ったもん。
石井  {花江の頭を抱いて}いいの、もういいの。有難う、有難う。
おせつ  先生様、勝手なお願いじゃが、杏子を長太と思うて教えてやってつかぁさい。{頭を深々と下げて}この通りじゃ、うちがわるうございやした。どうか、この子らのために帰って来てくだせえ。
        おせつ座り込んで何度も何度も言う。
        「帰って来て」「先生「せんせいかえってきて」
        子供達の声が飛びかう。
石井  おかあさん・・・許してくださるのですか・・・
おせつ  先生様、許すもゆるさんも・・・

        石井、おせつの手を握りしめた。
石井  皆さん、有難う。私はもう逃げません。どんなことがあろうと、私は子供達のために頑張ります。この子供達を辛い思いや、悲しい思いや、ひもじい思いをさせません。私はそのために闘います。その事がこれからの私の人生であるからです。私は教育者として、人間の道を教え、真実の言葉の意味、そして、真理を教えます。
  そのためにも、私はもう一度教壇に立ちます。
  もう、逃げるのはいやです。
                           暗転

 省三はあの夜に何も起こらなかったが、芳子を意識するようになっていた。

この「夏の路」はここで終わらせていただきます。
 ご愛読ありがとう御座いました。
 脱稿 2006/02/11 yuu yuu


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